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【青色ひよこのカルチャーコラム】 Copyrights(C)2019青色ひよこ All Rights Reserved.

   
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2017 / 02 / 13 / 月

子供の頃、ウルトラマンを観て、よく思った。
ウルトラマンや怪獣に踏まれた家の人たちは、どうしているんだろう、と。
足下の日常が気になって、上で繰り広げられる非日常に夢中になれなかった。

映画『この世界の片隅に』を観て、そのことを思い出していた。

☆彡☆彡☆彡

映画 『この世界の片隅に』-予告編
【公式サイト】http://konosekai.jp/
☆彡☆彡☆彡

主人公「浦野すず」は広島市育ち。おっとりと夢見がちで、絵が得意な女の子。
昭和18年、顔も名前も知らない人との結婚がきまり、18歳で呉へ嫁に行く。
たんぽぽの綿毛が風に乗って飛んでいくように、「すず」も新しい暮らしを流されるままにはじめる。

空襲が激しくなる呉のちいさな家で、まだたよりない女の子が、どうやって暮らしたか、戦時下の日常が丁寧に描かれていく。

新しい場所、新しい名字、新しい生活ルール。
お嫁に行った先では、すべてがはじめてだ。
「すず」の視線で描かれる世界は、戦争を知らないあたしが「戦時下の日常」をみるのと同じ。
おずおずと、引込み思案に、知らない世界の得体の知れなさに対峙する。

「すず」は新しい世界の居心地悪さを、どうやって乗り越えるのか。


★「女子力」

「すず」の眼に映った「呉」は、「日本一の軍港」というイメージからはほど遠い。
着物をもんぺにあつらえなおし、食糧難を野草や工夫や笑顔でのりきる「すず」のいる『この世界』の色彩は、戦時下とは思えないほど淡くて美しい。
そこは、路傍の草花が風に揺れ、モンシロチョウがひらひらと飛び、近所のおばちゃんたちと話す場所。
瀬戸内海のやわらかく明るい日差しの中では、遠くに浮かぶ戦艦も、どこか愛らしい。

「すず」のいる世界は、戦争なんかで押し込められることのない女の子の「かわいい」が散りばめられている。
服の柄や色にも、10代の女の子らしさがあふれてる。

それは、あたしが小さい頃に、パステルカラーのサンリオグッズに夢中になった気持ちと何ら変わらない。
小さな失敗を繰り返しては、はにかむ「すず」は、サンリオの仲間たちのように素朴でかわいくて、完璧じゃないことがそのまま魅力にもなっている。

細かくきざんだ菜っ葉を、包丁でまな板から鍋に滑り落とす日常動作だって、「すず」の手にかかれば、バイオリンを弾く仕草になる。

いつの時代も女の子は可愛いを生きられる。
夢見る力のある女の子は、無敵なのだ。


★「描くための眼」

砲弾の煙が空を色とりどりに染める時、「すず」はこう思うのだ。
ここに絵の具があったなら、と。

絵が好きな彼女は「描くための眼」をもっているから、ふりそそぐ弾も、こわくない。
世界の細部へのつきない興味が、彼女を突き動かし、観察し、記録するのだ。手の中にある、小さなスケッチブックに。
絵の中は、彼女の居場所。自分だけ血のつながらない家で、やっと彼女がくつろげる場所だ。
「描く」ことはいつだって、世界から眼をそむけない勇敢さを彼女に与え続けてきたのだ。
いつの時代だって、描くことができれば無敵でいられるのだ。


★「わたしらしさ」が奪われるとき

戦時下という非日常において、私が、私らしく居られることこそが、負けないことなのだ。
「すず」は、流されるようにやってきた呉で、必死にそうあろうとしてきたのだ。

描いて。夢見て。

けれど戦争という理不尽で非情な暴力は、ある日突然、彼女が「自分らしく」無敵でいられた魔法を奪っていく。

非日常が訪れる。

描くことのできない日。
「かわいい」なんて見いだせない日。

描けない。
夢見れない。
そういう恐ろしい非日常が、次の日常になっていく。
暗闇に突き落とされても、生きていくしかない日々が、日常になっていく。

どれだけ怒っても、嘆いても、元には戻れない。

夢見がちで無敵だった女の子が死んでいく様を、あたしは観る。
描く眼で見つめていた世界の美しい細部は、ある日突然なくなる。
描けないからだ。
かわいいってフィルターはもろく壊れる。
夢みることができないからだ。
そして「この世界」から色が失われてく。

コトリンゴがうたう。
「かなしくてかなしくて、とてもやりきれない」と。

映画のラストで、「すず」は夢見る力を取り戻したようにみえる。
大きな喪失を、次の物語を紡ぐ力にかえようとしているようにみえる。
綿毛のように流されててきた少女は、根をはり、花を咲かせるのだろう。
何度も何度も映る、タンポポのように。

そうやって、新しい日常を、誰もがつくっていくのだろうか。
戦争を超えて。 災厄を超えて。

映画がおわり、灯りがついて、この世界に引き戻された私は、久しぶりに映画館に拍手が鳴り響く音を聞いた。
「すず」のいた「この世界の片隅」は、私たちのいる世界と100年も隔てていない。
彼女がもう一度取り戻した新しい日常の果てに、私たちの世界がある。

映画館にいる誰もが、ウルトラマンでも怪獣でもなく、いつか踏まれるかもしれない人々で、どこでも、だれもが、いつでも、踏まれたあとも、生きていかなくてはいけない。

この世界の片隅に、なんとか居場所をみつけながら。

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2016 / 06 /13 月

映画「ロブスター」を観た。

♡♥♡

映画 『ロブスター』-予告編

♡♥♡

『質問しない。それがこのコメディを楽しむ鍵となる。』
公式ホームページにはそう書いてある。

そのとおりの映画だ。
主人公のオッサンが足下の犬を「私の兄だ」と言っても、「え?」と隣と顔を見合わせるヒマはない。そんなことをしているうちに、次の「え?」を見逃すからだ。
この映画に描かれる世界はあたしらがいる世界と見かけ上、なんの違いもない。
アイルランドの美しい自然と、しごくノーマルにみえる中年の男女たち。
しかし、ここには異常なルールがある。

【ルール】
独身者は45日以内にパートナーを見つけること。
さもなくば動物にさせられる。(なりたい動物の希望は叶えられる)
なぜなら、独身は罪だから。

「は?」

頭の中にいくつものクエスチョンが浮かぶ。
この映画はまるでシュールなコントだ。
しかし、登場人物の誰も、ツッコミをいれることはない。
ツッコミは、何らかの異常事態をすくいあげことで、緊張をほぐす愛だが、この映画では絶望的なまでに、その愛は欠けている。
もちろん、意図的に。
ツッコミのない投げっぱなしの世界からは、居心地の悪い気まずさが漂う。
しかし『質問』はせずに、その異常な世界を見守ろう。
それがこの映画をみるときのルールだから。

できるだけ平坦な気持ちで眺めながら思う。
異常なルールも、その世界の住人には、ただの日常なのだということを。

♡♥♡

主人公は中年の男。さえない風貌。妻に別れを告げられ、独身者となった。
彼は謎めいたホテルに送られる。
そしてそこで、45日以内に、パートナーを見つけなければならない。

ホテルをでるとき、彼は動物か?それとも人間のカップルか?
45日後、彼はどういう姿で再生するのだろう?

もしパートナーにめぐまれなかったら、何の動物になりますか?
彼は「ロブスター」と答える。
「寿命が長くて、死ぬまでセックスできるから」

ロブスターの語源をひくと『もがく』という意味がでてくる。
文字通り、彼はもがいてる。
パートナーとは?愛とは?セックスとは?人生とは何か?
その大問題に振り回されながら。

♡♥♡

美しい画面と、ブラックなユーモア。
そして耳の中で残響する、流麗だが不協和音満載のクラシック。
映画の間中、クラクラしながら、あたしは考えていた。

結局、何が幸福なのだろう?
どういう選択をしても八方ふさがりじゃないか。

独身者も、既婚者も、離婚者も、死別者も、誰もかれもに容赦ない結末がまってる。
甘い回答など、用意されていない。
甘くはないが、しかし、味わい深い。
それぞれの、理不尽な末路にはどれもこれもリアリティーがあり、これが人生なのだと納得する。
この寓話的世界は、あたしたちの話なのだ。
ただもがくしかない、あたしたちの。

♡♥♡

真のパートナーとはどんな存在なのだろう?

象徴的なシーンがある。
主人公が彼女と、CDプレイヤーで電子音楽を聴いている。
同時に「再生」ボタンを押せるよう、何度も訓練する。
完璧な同期をめざして。

自然に『同期』してしまうような相手、それが伴侶というものだろうか。
そういう伴侶を得るということが、文字通り「再生~再び生きる」ということだろうか。

しかし、真のパートナーを得ることが、幸せなのか?
相手とぴったり同期してしまうということは、相手の悲しみも苦しみもすべて、自分の悲しみ、苦しみとイコールだ。
辛さも二人分、引き受けなければならないということだ。
分かち合うことでそれが半分になったところで、結局苦しみの総量は、ひとりでいるときと同じということになる。

♡♥♡

そこであたしは、思う。
独身でいた方が、よくなくなくなくなくなくなーい?

自分にぴったりの相手が、限られた期限に見つからなくて、動物にされて森に放たれたとしても、動物には一人で生きていける能力がある。人間と違って。

それこそ「自由」ではないか?

あたしは、結論を見いだしたような気持ちになる。
勇気をもって、動物になろう。そして森で自由に生きよう。

しかし、次の瞬間、また愕然とする。
森には、動物になることを拒んで、ホテルを逃げ出した「人間」の独身者たちがいるからだ。

ルールをやぶった反抗者たちは、結局、動物にされるのと同じように、家もなく、森で暮らすしかない。
そしてカップルになった者たちを恨みながら、殺伐と生きている。森の動物を食べながら。

ここでまた、厭なことに気づく。
森の動物もまた、元・独身者じゃないか。
つまりこれって。
共食い・・・。

独身をこじらせた奴らに、独身を謳歌するけだものが喰われるなんて、まっぴらだ。

♡♥♡

あたしは再考する。
そうだ!打算で相手を選べばいいんだ。
愛してなどいなければ、相手の苦しみが自分の苦しみになることもない。
ひがんだ奴らに喰われることもナイ。

恐れのあまり、打算でパートナーを選ぶというようなことは、こっち側の世界でもよくある話だ。

・・・が、しかしやっぱり、思った通り、そういう選択の末路はひどいのだ。

ウソはすべて、不幸にしかつながらない。
自分自身を偽ることで、周辺の人までも、破滅したりする。
例えば。何かが違う、何かがおかしいと気づいていても、いいや、あたしは、やっぱりあの人が好き、あの人じゃないとだめなの、みたいな、かわいいウソですら、不幸の扉を開けるカギだ。

どんなに小さくても、自分自身を偽ることは結局、自傷行為なのだと、この映画は語る。

♡♥♡

『質問しない。それがこのコメディを楽しむ鍵となる。』
公式ホームページにはそう書いてある。

しかし、あたしの頭の中は、映画をみたあとも質問でいっぱいだ。 理解できているのは、いい映画はいつも問いを残すということだ。

ラストシーン。暗転し、波の音だけが鳴っている。
不穏な音楽はもう聞こえない。

バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのかすら、もう分からない。

2016 / 04 / 01 金

日曜日、おやつの時間。
横浜、黄金町にある『シネマ・ジャック&ベティ』へ行く。
映画館近くの老舗「パン工房 カメヤ」の、卵サンドとコロッケサンドをほおばりながら、上映を今か今かと待つ。

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古い映画館の座席の傾斜はゆるやか。
前に座る人の、頭の形を気にしながら、首をあげて高い位置のスクリーンを凝視。
スペイン映画 『マジカル・ガール』がはじまった。

☆♪☆♪☆

映画 『マジカルガール』-予告編
☆♪☆♪☆

冒頭、80年代の日本のアイドルソング、長山洋子のデビュー曲「春はSA-RA SA-RA」が爆音で流れて度肝をぬかれる。
1980年うまれのカルロス・ベルムト監督は、日本のサブカルチャーにも大きな影響を受けたという。

☆♪☆♪☆

★あらすじ

少女、父親、ナゾの人妻、老人の4人が主な登場人物。

少女:アリシア。12歳で白血病
父親:ルイス。アリシアの父で元国語教師、現在失業中
ナゾの人妻:バルバラ。裕福な精神科医を夫に持つ、謎めいた美女
老人:ダミアン。バルバラの少女時代の数学教師で、服役から出所したばかり

余命幾ばくもないアリシアの夢は、大ファンである日本のアニメ「魔法少女ユキコ」のコスプレをして踊ること。
娘の願いをかなえるため、失業中の父(元・国語教師)はルイスは、90万円もするユキコのドレスを手に入れようと金策に走るも、うまくはいかない。

金を工面するため、犯罪を決意した瞬間、ひょんなことから、裕福な精神科医を夫に持つ美女バルバラと出会う。
そして少女時代のバルバラの数学教師だったダミアンを巻き込んで、悲劇的な結末をむかえることになる。

アニメのコスチュームを買おうとする「おとうさんの必死」は、あたたかいヒューマンドラマへ転がっていくのだろうか。
否。
ゲスに薄汚れた世界、フィルムノワール色を強めていくのだ。江戸川乱歩の「黒蜥蜴」的な変態性をも帯びながら。

☆♪☆♪☆

★ふたりのアリス、ふたりのルイスキャロル

スペイン語でアリシアは、英語にするとアリスだそうだ。
娘アリシアと父ルイスは、不思議の国のアリスと著者のルイスキャロルから名付けられたのだろう。
このネーミングにふと、よぎる不安。このふたり、血がつながった父娘じゃないかも?
ルイスのひざに針金のようにたよりない足をのせ、ソファーで休むアリシアが妙にエロティックにみえてくる。

ナゾの美しい人妻バルバラと、彼女と過去につながりのあるダミアンからも、アリス・リデルとルイス・キャロルに似た変態性が漂う。

ダミアンはルイス・キャロルと同様に数学教師で、幼き日のバルバラに魅了された過去をもつ。
「人生でパニックになったのは12歳の少女に見つめられたときだけだ!」などと告白するダミアンは服役を終えたばかり。服役のナゾが、ルイス・キャロルに向けられたいかがわしい疑惑を想起させる。

☆♪☆♪☆

★魔法少女から魔女へ

魔法少女とは何か?

あたしがよく観ていた魔法少女アニメ、「魔女っこメグちゃん」の歌詞は、それを雄弁に語っている。
まず年齢は、『子どもだなんて思ったら大間違いよ』な、おんなのこ。
アリシアは12歳。魔法少女になる資格がある。

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そして『しんじゅの涙をうかべたら 男の子なんてイチコロ』にさせる魅力がそなわっていること。
アリシアの場合は、白血病という特殊事情があてはまる。

命が短いことを知ってるアリシアは、[自分の欲求がどこまで受け入れられるかゲーム]を父にしむける。
ジントニックが飲みたいとか。タバコが吸いたいとか。
父はその悪事に手を貸す。教師だったルイスは、愛のために愚かになれる男なのだ。

アリシアには「男を狂わす悪女ーファムファタール」の片鱗がある。それは魔女に昇格する資格もあるということ。

アリシアが魔法少女だとしたら、 バルバラはその先の存在:魔女だ。

魔女は自分が男を狂わせる存在であることに意識的だが、バルバラはダミアンが自分の守護天使であることを知っている。
魔女は秘密を抱えているものだが、バルバラは過去に大きな秘密がありそうだ。

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アリシアとバルバラ。両者とも「魅入られる」存在だ。

☆♪☆♪☆

★鏡のもつ魔術的な力

鏡は、女の子の変身願望を満たす、魔法少女たちの必須アイテムでもある。
アリシアは魔法少女に変身したい。健康でかわいいおんなのこに。彼女は鏡の前で踊る。

バルバラは魔女に変身したくない。今の夫との一見平穏な日々を続けたい。バルバラは失意の底で鏡を割る。鏡を割る行為は、もうもとの姿には戻りたくないという意思のあらわれかもしれない。

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魔法少女は魔女になれるかもしれないが、魔女は魔法少女には戻れない。
魔法少女は無邪気にかわいい自分を鏡にうつすが、魔女は血を流す自分を鏡の中にみる。

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恐ろしい事態に対して、バルバラの表情は妙に平坦だ。
それは、やっかいごとがふりかかっても、妙に淡々としている鏡の国のアリスのようでもある。

バルバラ周辺の怪しげな人間たちは、まるで鏡の国の住人で、シュールでナンセンスな言い方をする。

例えばこんなシーンがある。
過去の仕事で関係があったであろう女に、バルバラは仕事を懇願するのだが、女は変わった条件をバルバラに課す。
「チュロスを買ってきて」
チュロスを買ってきたバルバラに女は言う。
「アレ、あたしチュロス買って来てなんて言ったっけ?」

バルバラは鏡の国の囚人だ。


★省略と余白の美

この映画には、「肝心なところは見せない」という省略の美学が貫かれている。
くどくど説明はせずモノや構図で語るのだが、どのシーンも暗い予感しかしないところがすごい。
観客には、語られない行間を読みながらストーリーを補完することが求められるが、難しいことではない。
あらゆる種いの最悪が脳裏に浮かぶよう、ヒントはたくさん用意されているからだ。

★モノに語らせる<その1ー椅子>

アリシアとパパが囲む食卓は、椅子がありあまっている。 かつては埋まっていたのだろうか? そもそもなぜ、ふたり暮らしなのか? ママは?兄弟は?
一切、何も語られない。

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バルバラと精神科医の夫の暮らす贅沢な家でも、椅子は余っている。
彼女は精神科医の夫から、エサを与えられる犬のように、クスリを飲まされているが、元々、主治医と患者の関係だったのだろうか?
一切、何も語られない。

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誰かの不在を感じながら、あらゆる可能性が頭をめぐる。

★モノに語らせる<その2-ドアとカーテン>

ドアやカーテンはあちらとこちらの境界だ。
不都合なこと、みせたくない混乱を隠すことができる。

ルイスがアリシアの部屋のドア越しに、耳を傾けるシーンがある。
しかし魔法少女の部屋は秘密の花園だ。かたく、閉ざされる。

カーテンはドアよりずっともろい。外と内を隔てるしなやかな膜。
バルバラが「黒蜥蜴」の部屋へ入る時はカーテンの中に消えていく。
魔女の秘密は、ひだの奥深くに隠される。

登場人物たちが手をのばしたその先でおこる出来事に心がざわつく。

★モノに語らせる<その3ー盆栽>

バルバラの「仕事」について、多くは語られない。
しかしヒントはたくさんある。 たとえば、バルバラが仕事を斡旋を求める女の背後には、なぜか盆栽が飾られている。

盆栽は、枝を針金で固定し、屈曲させたり這わせたり、様々な技巧を競い愛でる、奇形の美だ。

つまり・・・?
バルバラが「挿入なし」という条件をつけた、「その仕事」!!

バルバラは盆栽にされてしまうのだろうか。誰かに愛でられるために徹底的に痛めつけられるのだろうか。

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小さな盆栽にまで意味があって恐ろしい。

★モノに語らせる<その4ー格子>

格子には囚われのイメージがある。
ダミアンは、服役を終え格子の外へでた。
しかし、彼はやはりバルバラという存在に囚われている。

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そのことを示すように、バルバラのために何かをするとき、彼は格子の内側にいる。

★モノに語らせる<その5ーパズル>

パズルでは部分がつながって世界ができる。
出所後、ダミアンはパズルで心を整えるが、1ピース足りない。
たった1ピースのせいで、世界は満たされない。それは彼の心を表している。

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彼が探しているかけがえのない断片はどこにあるのか。そしてそれを、無惨にうち捨てるのは誰か。

ピースはpiece<断片>でもあり、peace<平穏>でもある。
心の平穏を奪われたダミアンは、理性も失う。

★構図に語らせる<その1-トリミング>

バルバラの夫が命令口調で話すとき、首から上は映画の枠の外だ。 体を変な場所でに断ち切る構図から、まるでSMプレイの延長のような、いかがわしさや緊張感が漂ってる。

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バルバラをやさしく見下ろす夫は、時にバルバラを見下しているようにも見えるし、一方バルバラは、不自然なほどに夫にかしずいているように見える。

★構図に語らせる<その2-人物配置>

人間の眼は人間を見るようにできていて、中央に配置されていると安定する。

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アリシアがスクリーンのはじっこのほうで一人で何か食べているショット。
変な余白からは孤独しか感じない。
ルイスが病院で、アリシアの病状を聞くシーンもでも、人物は片側によっている。

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バランスの悪さが観賞者の不安をあおる。

バルバラが過去につながりのある怪しい女に会いに行くシーン。

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バルバラの姿は首から上も腰から下もスクリーンからはみだしているのに、怪しげな軍団はきちんと集まって、しかも窓枠の内側におさまっている。
それは、枠にとらわれているととらえることもできるし、善し悪しはぬきにして、ある秩序の中で動いている人々ととらえることもできる。

カタギの世界でもヤクザな世界でも、はみだしているのはバルバラだ。

★色に語らせる<パステルカラー>

アリシアのいる世界は魔法少女的な明るいパステル調の色彩で統一されている。
ピンクやうすいパープル。
病室の白さえも、無垢で純粋な魔法少女世界の色。

★色に語らせる<ダークカラー>

魔女は黒い衣装を着ているが、バルバラの着る服もまたグレーや黒が多く、真っ黒な傘も魔女的だ。

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★色に語らせる<赤>

ある決意を固めた身だしなみを整えるダミアンは、マタドールのようだ。
ターゲットとなる猛牛を挑発するつもりなのか、赤いネクタイでビシっときめる。

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しかし、実際の闘牛において、牛は赤を認識できないため、色で興奮しているのはマタドール自身だそうだ。
ネクタイの赤が示すもの。
それは、誰よりも理性的であることに美をみいだすダミアンが、感情に振り回される様子を暗示しているのかもしれない。

★顔で語らせる<その1-表情>

肝心な場面で、表情をよみとらせないような演出は随所で見られる。
主要なキャラクターは、やたら背面が多い。
また、正面を向いていても、暗くてみえなかったり、シルエットになっていたりする。

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バルバラが知り合いの赤ちゃんを嫌々ながら抱っこして、妙なテンションで笑うシーンがある。
観客には表情がみえず、不気味な笑い声だけが届いてこわい。

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バルバラは、顔がはっきり映っていたとしても表情に乏しく、何を考えているのか全く読み取れない。

見えないと見たい欲望がわき起こるものだ。見せないことにより観客の妄想をかきたてる。絵で物語られる内容は、説明よりもより雄弁で恐ろしい。

★顔で語らせる<視線>

コワイことがおこる!の直前、秘密を知りたいと願う観客のほうを、登場人物がまっすぐ見るシーンがちりばめられている。

終盤、ダミアンは「見るな!見るな!!」と叫びながらあたしたちを見る。
それはまるで、見世物小屋の見世物が、観客をおどすようだ。

バルバラも、悲劇につきおとすような言葉を吐くとき、「あたしたちの方」を見て言う。

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登場人物から見つめられると、なぜ、あたしたちはこわいと感じるのだろう?
あたしたち観客は透明人間になって、スクリーンの中で繰り広げられる物語を「外の人」として見つめている。
「中の人」にはあたしたちの存在は知られていない、という暗黙の了解がある。

しかし、その前提を打ち崩すように、「中の人」が視線を通じて、接触を図ってくるのだから、そりゃ、こわい。

バルバラの「自分より不幸な人をみるためにテレビをみる」と言うセリフがある。
それは映画の観客であるあたしたちにもぴたりとあてはまる。
登場人物たちがあたしたちに向ける視線は、こう言っているようだ。
「おれたちだけがゲスだとでもいうのか?お前の卑しい欲望もまた、見透かされているんだぞ」と。

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☆♪☆♪☆

★フィルムノワールの世界

フィルム・ノワール (film noir) とは1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された犯罪映画だ。
マジカル・ガールにはフィルムノワールの要素がこれでもか、というほど散りばめられている。

フィルムノワールでは、男を狂わす悪女:ファムファタールの存在が欠かせない。
この映画ではバルバラだ。彼女がいることで、ルイスもダミアンも、ゲスの極みにまで堕ちていく。

しかしその地獄から、男たちはいつだって抜け出せる。
抜け出せるのにそうしない、というのもフィルムノワール的だ。

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☆♪☆♪☆

★愛とひきかえの代償

外へでると日は暮れていて、元・魔法少女だったであろう老女たちも、静かに帰路についていく。

あなたは帰り道を わたしより急いでいます
こんな日はSA RA SA RA
夢もSA RA SA RA
ー『春はSA-RA SA-RA』長山洋子

横浜は春というにはまだ寒く、さくらのつぼみも固いままだ。

一緒に映画を見に行った聖☆おじさんと、ホルモンをつつきながら映画について語る。

あたし: 「アリシア、ルイス、バルバラ、ダミアン。 この4人の中で一番わるいヤツは誰か」
聖☆おじさん: 「アリシアじゃない?」

理由は語らなかった。あたしはずっと考えていた。

最初は、彼女の身の程知らずな欲(90万円のドレスと、もっと高い魔法の杖)が、すべての悲劇の原因になってるせいかなと思ったりした。映画のキャッチコピーにも、「魔法少女ユキコは悲劇のはじまり」とあることだし・・・。

しかし、数日たって気づいた。

ルイス、バルバラ、ダミアンは元々の自分をゆがめてまでも、愛する人のためにアクションをおこしている。 それらはすべて自己犠牲であるし、自分を罰しているようにすらみえる。

アリシアの行動だけが、自己犠牲ではないのだ。 彼女は、多くの少年少女たちと同様に、誰かより自分を大事に思ってるんじゃないだろうか。 パパへの愛のメッセージを直接伝えず、ラジオに投稿するあたり、自分の行動に酔っているふうにもみえる。

大人になるということは、愛のかたちをかえることかもしれない。

自己愛から自己犠牲へ。

しかし、「誰かのために」という免罪符を得た愛のよる行為は、悪をも引き寄せやすいあやういものだ。
ルイス、バルバラ、ダミアンの3人も結局、愛による脅迫の連鎖でつながってしまったのだから。

ラストで、ピンクマルティーニによる、美輪明宏の「黒蜥蜴の唄」のカバーソングが流れていた。

ダイアの心を 守り通すため  私は死ぬのよ
愛をのがれて

ー『黒蜥蜴の唄 』美輪明宏

愛とひきかえにダイアのココロは死ぬ。
そういえば、乱歩の黒蜥蜴も、唯一愛した明智小五郎の存在によって自己崩壊していく話だった。

映画がおわった後、あたしはとんでもない場所にまで流されてきた気がした。

  
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